◆ 冬季オリンピック歴代開催地と歴史 ◆
- Hostingcity data and History of the Olympic Winter Games -


開催年
Opening
Year
開催都市
Hosting City

(都市名をクリックすると
解説が見られます)
開催都市
の国
Hosting
Nation

(クリックで
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競技数

(種目数)
参加


地域
出場
選手数

( )内は
日本の
選手数
日本選手のデータ Japanese data
日本のメダル数
JPN Medals
  ┌メダル含む全入賞数 Winning a prize
  │
  │
  ↓
日本
選手数
日本選手団 主将と旗手
Japanese captain and flag-bearer
1 1924 シャモニー・モンブラン
Chamonix Mont-Blanc
France FRA
フランス
4
(16)
16 258
(0)
       
(開催当時は試験大会だったため、不参加)
 
2 1928 サンモリッツ
St. Morits
Switzerland SUI
スイス
5
(14)
25 464
(6)
      0 男子/6
女子/0
合計/6
主将・旗手/ 高橋 昂 (スキー)
3 1932 レークプラシッド
Lake Placid
United States of America USA
アメリカ
4
(14)
17 252
(17)
        男子/17
女子/0
合計/17
スキー主将/ 保科武雄(クロスカントリー)
スケート主将/ 木谷徳雄(スピード)
4 1936 ガルミッシュ・パルテンキルヘン
Garmisch-Partenkirchen
Germany (Nazis government) GER
ドイツ
4
(17)
28 668
(35)
      1 男子/34
女子/1
合計/35
主将/ 安達五郎 (スキージャンプ)
旗手/ 老松一吉 (フィギュアスケート)
5 1948 サンモリッツ
St. Morits
Switzerland SUI
スイス
5
(22)
28 669
(0)
        (第二次大戦の戦争責任を問われ、
ドイツと共にIOCより招待されず不参加) 
6 1952 オスロ
Oslo
Norway NOR
ノルウェー
4
(22)
30 694
(13)
      1 男子/13
女子/0
合計/13
 
7 1956 コルティナ・ダンペッツォ
Cortina D'Ampezzo
Italy ITA
イタリア
4
(24)
32 820
(10)
  1   1 男子/10
女子/0
合計/10
 
8 1960 スコーバレー
Squaw Valley
United States of America USA
アメリカ
4
(27)
30 665
(41)
      3 男子/36
女子/5
合計/41
主将/ 猪谷千春 (アルペンスキー)
旗手/ 上野純子 (フィギュアスケート)
9 1964 インスブルック
Innsbruck
Austria AUT
オーストリア
6
(34)
36 1091
(48)
      3 男子/42
女子/6
合計/48
主将/ 長久保文雄 (スピードスケート)
旗手/ 菊地定夫 (スキージャンプ)
10 1968 グルノーブル
Grenoble
France FRA
フランス
6
(35)
37 1158
(62)
      0 男子/53
女子/9
合計/62
主将/ 佐藤和男 (クロスカントリー)
旗手/ 金入孝明 (アイスホッケー)
11 1972 札幌
Sapporo
Japan JPN
日本
6
(35)
35 1006
(90)
1 1 1 6 男子/70
女子/20
合計/90
主将・宣誓/ 鈴木恵一(スピードスケート)
旗手/ 益子峰行 (スキージャンプ)
12 1976 インスブルック
Innsbruck
Austria AUT
オーストリア
6
(37)
37 1123
(57)
      0 男子/51
女子/6
合計/57
主将/ 笠谷幸生 (スキージャンプ)
旗手/ 鈴木正樹 (スピードスケート)
13 1980 レークプラシッド
Lake Placid
United States of America USA
アメリカ
6
(38)
37 1072
(50)
  1   4 男子/46
女子/4
合計/50
主将/ 久保田三知男(ノルディック複合)
旗手/ 若林 修 (アイスホッケー)
14 1984 サラエボ
Sarajevo
Socialist Federal Republic of Yugoslavia YUG
ユーゴスラビア
6
(39)
49 1274
(39)
  1   1 男子/32
女子/7
合計/39
主将/ 出口弘之 (バイアスロン)
旗手/ 高橋忠之 (フィギュアスケート)
15 1988 カルガリー
Calgary
Canada CAN
カナダ
6
(46)
57 1423
(48)
    1 9 男子/37
女子/11
合計/48
主将/ 黒岩 彰 (スピードスケート)
旗手/ 橋本聖子 (スピードスケート)
16 1992 アルベールビル
Albertville
France FRA
フランス
6
(57)
64 1801
(63)
1 2 4 16 男子/42
女子/21
合計/63
主将/ 佐々木一成 (クロスカントリー)
旗手/ 川崎 努 (ショートトラック)
17 1994 リレハンメル
Lillehammer
Norway NOR
ノルウェー
6
(61)
67 1739
(65)
1 2 2 21 男子/49
女子/16
合計/65
主将/ 橋本聖子 (スピードスケート)
旗手/ 三ヶ田礼一 (ノルディック複合)
18 1998 長野
Nagano
Japan JPN
日本
7
(68)
72 2177
(166)
5 1 4 33 男子/100
女子/66
合計/166
主将・宣誓/ 荻原健司(ノルディック複合)
旗手/ 清水宏保 (スピードスケート)
19 2002 ソルトレークシティー
Salt Lake City
United States of America USA
アメリカ
7
(78)
77 2399
(109)
  1 1 27 男子/61
女子/48
合計/109
主将/ 原田雅彦 (スキージャンプ)
旗手/ 三宮恵利子 (スピードスケート)
20 2006 トリノ
Torino
Italy ITA
イタリア
7
(84)
82 2633
(112)
1     21 男子/59
女子/53
合計/112
主将/ 岡崎朋美 (スピードスケート)
旗手/ 加藤条治 (スピードスケート)
21 2010 バンクーバー
Vancouver
Canada CAN
カナダ
               
 
 
 
22 2014 ソチ
Sochi
RUS
ロシア
               
 
 
 
※ この表のデータは、正式種目
  のみを統計しています。 
合計 Total   23386
(1031)
9 10 13 147 男子/758
女子/273
合計/1031
※ 自国開催の場合、主将は
開会式で選手宣誓を行います。
Total  32
全入賞者リスト


冬季オリンピック開催都市の位置・場所 Olympic Winter Games Hosting City Map
 ヨーロッパ地区 
Europe - Area
 ヨーロッパ・アルプス地区 
Europe Alps - Area
北欧地区
North Europe - Area
旧ユーゴスラビア地区
Old Yugoslavia - Area
北米地区
North American - Area
冬季オリンピック ・日本選手メダリスト (クリックで競技結果・プロフィール参照) 全入賞者リストはこちら  
1956 コルティナ・ダンペッツォ アルペンスキー 男子回転 猪谷千春
1972 札幌 スキージャンプ 70メートル級 笠谷幸生
金野昭次
青地清二
1980 レークプラシッド スキージャンプ 70メートル級 八木弘和
1984 サラエボ スピードスケート 男子500メートル 北沢欣浩
1988 カルガリー スピードスケート 男子500メートル 黒岩 彰
ショートトラック
(公開競技=非正式種目
  として実施)
*女子3000メートル 獅子井英子
*女子3000mリレー 獅子井英子、山田由美子、竹内洋美、木下真理子
*男子500メートル 石原辰義
1992 アルベールビル ノルディック複合 団体 三ヶ田礼一、荻原健司、河野孝典
フィギュアスケート 女子シングル 伊藤みどり
スピードスケート 男子500メートル 黒岩敏幸
井上純一
男子1000メートル 宮部行範
女子1500メートル 橋本聖子
ショートトラック 男子5000mリレー 川崎 努、石原辰義、河合季信、赤坂雄一
1994 リレハンメル ノルディック複合 団体 荻原健司、河野孝典、阿部雅司
個人 河野孝典
スキージャンプ 団体 原田雅彦、葛西紀明、岡部孝信、西方仁也
スピードスケート 男子500メートル 堀井 学
女子5000メートル 山本宏美
1998 長野 スキージャンプ 団体 原田雅彦、斉藤浩哉、岡部孝信、船木和喜
ラージヒル 船木和喜
原田雅彦
ノーマルヒル 船木和喜
スピードスケート 男子500メートル 清水宏保
男子1000メートル 清水宏保
女子500メートル 岡崎朋美
フリースタイルスキー 女子モーグル 里谷多英
ショートトラック 男子500メートル 西谷岳文
植松 仁
2002 ソルトレークシティー スピードスケート 男子500メートル 清水宏保
フリースタイルスキー 女子モーグル 里谷多英
2006 トリノ フィギュアスケート 女子シングル 荒川静香

 
第1回  1924年  シャモニー・モンブラン 大会 (フランス) 【地図】  一覧へ戻る▲
 ”近代オリンピックの父”ピエール・ド・クーベルタン男爵は、当初はオリンピック競技種目の中に冬季競技を導入する事には否定的でありました。
 しかし実際には1908年ロンドン五輪ではフィギュアスケートが、1920年アントワープ五輪ではフィギュアスケートに加えてアイスホッケーが実施されていたため、1921年のIOC(国際オリンピック委員会)総会において、冬季競技をオリンピック種目に導入する事の是非が議論されます。この結果を受け、1924年第8回パリ五輪に先駆けてフランス国内のシャモニー・モンブラン地方において「国際冬季競技週間」を試験的に実施する事となりました。
 この大会の正式名称は『第8回オリンピアードの一部として、IOCが最高後援者となり、フランス・オリンピック委員会がフランス冬季競技連盟とフランス・アルペンクラブ共同でシャモニー・モンブラン地方で開催する冬季スポーツ大会』というややこしいものでしたが、略称として「国際冬季スポーツ週間」と呼ばれていたものです。
 この大会には16の国と地域が参加し、14種目で競技が行われて成功裏に終わり、翌1925年、プラハでのIOC総会で『第1回冬季オリンピック競技大会』として正式に認定され、ここに冬季オリンピックが誕生しました。
 
第2回  1928年  サンモリッツ 大会 (スイス) 【地図】 一覧へ戻る▲
 当時のオリンピック規定では、その年の夏季オリンピックを開催する国が優先的に冬季オリンピックも開催出来る事になっていましたが、1928年アムステルダム五輪を開催するオランダ国内には冬季五輪を開催する適地がなかったため、オランダ・オリンピック委員会はIOCに冬季大会の開催を返上しました。
 そこでIOCは、ヨーロッパアルプスの麓でスキーリゾート地として有名なスイスのサンモリッツを開催都市に選び、第2回大会を開催しました。
 日本はこの大会より冬季オリンピックに初参加、スキー種目に計6名の選手を派遣しました。
 
第3回  1932年  レークプラシッド 大会 (アメリカ) 【地図】  一覧へ戻る▲
 第10回夏季大会の開催地がロサンゼルスに決まると、アメリカ・オリンピック委員会は冬季大会の開催地に、ニューヨークからハドソン川を北へ上り、カナダとの国境に近いニューヨーク州の小さな町、レークプラシッドを選びました。バーモント州との境にあるシャンプレーン湖の西岸から少し西側の山地に入ったところ、小さなプラシッド湖とミラー湖の湖岸にある町です。当時は何もない寒村でしたが、冬季オリンピック開催以来、この地はアメリカ・ウインタースポーツの中心地として発展していきます。
 しかし大会本番では50年ぶりの暖冬異変に見舞われてコース変更などを余儀なくされました。またスピードスケートでは、数人が一斉に同時にスタートする「アメリカ式オープンレース」を採用したため、これに慣れていないヨーロッパ勢の不評もかいました。

<参考サイト>
【LAKE PLACID OLYMPIC REGION】http://www.orda.org/newsite/index.php(英語サイト)
オリンピック地域開発局HP。レークプラシッド一帯の競技施設関連、オリンピックミュージアム、観光・イベントなどを紹介しています。
 
第4回  1936年  ガルミッシュ・パルテンキルヘン 大会 (ドイツ) 【地図】  一覧へ戻る▲
 第2次世界大戦前、ナチス・ドイツがベルリン夏季オリンピックを開催した年の冬季大会。ヒトラーがドイツの国力を世界に見せつけるための大会、国の威信をかけて開催した大会でもありました。

 開催地となったガルミッシュ・パルテンキルヘンは、ドイツ南部の主要都市・ミュンヘンから南へ自動車で1時間と少し、バイエルン地方のさらにオーストリア国境の近くに開けるスキーリゾート地。ドイツ最高峰であるツークスピッツェ山(2963m)の登山口として観光客が絶えません。元々は「ガルミッシュ」と「パルテンキルヘン」の別々の町だったものを、オリンピック開催地選定に有利にするため、ヒトラーの策略でひとつの町に無理矢理合併した経緯があります。
 また、ここはスキージャンプの伝統である、年末〜年始に掛けて行われる『ヨーロッパ・ジャンプ週間』(全4戦)の第2戦目の開催地として、古くからジャンプファンの間で親しまれています。

 この大会では、ジャンプ台を半円形のコロシアムに建築するなど、ヒトラーが率先して盛大な冬季オリンピックを演出しました。
 しかしやがて世界は第2次大戦へと突入、冬季オリンピックは2大会中止となりました。この中には、1940年(昭和15年)に夏季大会は東京、冬季大会は札幌で行われる予定だったものも含まれます。この時の東京・札幌の両大会とも、戦争のために幻に終わりました。
 
第5回  1948年  サンモリッツ 大会 (スイス) 【地図】  一覧へ戻る▲
 第2次世界大戦が終わり、世界が平和へ向けて動き出した後の最初の冬季オリンピック。前回大会から12年ぶりに開催されました。開催地には、大戦中に中立国であり、過去に冬季オリンピックを開催している実績などから、IOCはスイスのサン・モリッツを選びました。1928年の第2回大会についで2回目の開催となりました。しかし戦争責任を問われ、日本とドイツは参加が認められませんでした。
 
第6回  1952年  オスロ 大会 (ノルウェー) 【地図】  一覧へ戻る▲
 スキー発祥の地、文字どおりノルディック・スキー発祥の地であるノルウェーでの初の冬季オリンピック開催ということで、随所にアイデアを取り入れた大会でもありました。日本とドイツは、今大会より復帰します。
 冬季オリンピックでは初めて聖火リレーが行われました。ノルウェーが生んだ偉大なスキー走者、アンドレ・ノルドハイム選手の生家のかまどから採火したオリンピックの火を、オスロのビスレット・スタジアムまでリレーで運んで点火し、大会が開幕しました。
 大会が始まると、どの会場にも多くの観衆が押し寄せ、中でもジャンプ競技の聖地・ホルメンコーレンのジャンプ台は15万人の大観衆で埋め尽くされました。この時の観客数は、夏季大会も含めて、今でもオリンピック記録として破られていないほどです。
 また、この大会でオスロ市はIOCに冬季オリンピックの五輪の旗を贈呈しますが、これが以後、冬季オリンピックの旗を”オスロ旗”と呼ぶ由来となり、以後、この旗が冬季大会の開会式で登場し、大会のメイン会場のメインポールに掲げられ、閉会式では次回大会の開催都市へ受け継がれる伝統となって行きます。
 ある意味、現在の冬季オリンピックの形式の基礎を築いた大会でもありました。
 
第7回  1956年  コルティナ・ダンペッツォ 大会 (イタリア) 【地図】  一覧へ戻る▲
日本選手のメダル獲得
アルペンスキー 男子回転 猪谷千春

 イタリア北東部のアルプス山中・ドロミテ山群の麓の高級スキーリゾート地、コルティナ・ダンペッツォで開催された大会。ソ連が冬季オリンピックに初めて参加、第2次大戦後東西に分断されていた東西両ドイツが統一選手団を編成して参加しました。
 この大会での最大の話題は、なんといっても冬季オリンピック史上初の”アルペン三冠王”誕生となった、オーストリアの名レーサー、トニー・ザイラー選手の活躍でしょう。アルペン3種目(滑降・回転・大回転)で圧倒的な強さで金メダルを独占、さらに初戦の大回転ではオーストリアが金・銀・銅のメダルを独占しました。

 またこの大会は、日本のスキー史に残る大会ともなりました。それは、アメリカでトレーニングを積んでいた猪谷千春選手が、トファーナのコースで行われたアルペン種目の回転競技(スラローム)で銀メダルを獲得、これが日本の冬季オリンピック史上初のメダルとなったからです。日本ウインタースポーツ界の歴史的大会となりました。

 なお、猪谷千春氏は以後日本とIOCのパイプ役として活躍し、現在は日本人で唯一人のIOC理事として日本のウインタースポーツ界に君臨、長野の冬季オリンピック誘致成功にも貢献しました。その長野冬季オリンピックでは表彰式でメダリストへのメダル授与シーンなどでTVでご覧になった方も多いでしょう。
 
第8回 1960年  スコーバレー 大会 (アメリカ) 【地図】  一覧へ戻る▲
 スコーバレーでの冬季オリンピック開催が決定した時、ほとんどのIOC委員たちはその地がアメリカのどこにあるか知らなかったほどでした。
 スコーバレーは、アメリカ西海岸・カリフォルニア州の北部、ネバダ州との境に近い、サンフランシスコから北東へ320kmも離れたシエラネバダ山脈の東側の標高約2000メートルの斜面の地で、タホ湖の北西岸に位置しており、タホ湖北東岸に隣接する、カジノで有名なリノ市から山あいの道を車で約1時間の地。当初は冬季スポーツ施設は皆無だったのがその理由です。
 この地に冬季オリンピックを誘致しようとしたのは、その地のほとんどを所有してたいた、民間人のアレクサンドル・クッシング氏。いわば、”自分の土地でオリンピックを開きたい”という願望が発端です。彼はアメリカのIOC委員やアメリカ・オリンピック委員会を説得した後、世界各地のIOC委員を訪ね歩き、スコーバレーに投票してくれる様に頼み込みます。その結果、1955年のパリでのIOC総会で、ライバルのインスブルック(オーストリア)に32票対30票の僅差で勝って開催地に決定されます。

 この大会では、施設面において現在の原型が出来上がったとされ、クッシング氏の私有地での開催だったため、各競技場や選手村、各施設等が非常にコンパクトにまとめられました。開会式場の目の前にスピードスケートのリンクがあり、その向こう側にジャンプ台のランディングバーンがあり、その隣にはスキーのアルペンコースのゴール地点がある、といった状況です。さらにオリンピックのため、スキーコースに大型ロープウェーを建設するなど、大掛かりな施設建設も行われました。また開会式ではディズニーの演出で華やかなものになりました。しかしボブスレー会場には適当な地がなかったため中止となり、その代わりに、射撃とクロスカントリースキーをミックスさせた、バイアスロン競技が新競技として新しく加わりました。
 なお、今大会はフィギュアスケートが屋外リンクで開催された最後のオリンピックともなりました。次回、インスブルック大会よりすべて屋内リンクでの開催となったからです。その会場となったアイスアリーナとスピードスケートリンクは、冬季オリンピック史上初めてパイピングが施されたハイテクリンクでした。
 順調に進んでいた大会への準備でしたが、開幕2週間前にスコーバレー一帯が激しい豪雨に見舞われ、整地が済んでいたスキーコースなどが雨で流され、突貫工事での復旧作業の結果、なんとか開催にこぎつけるという危機がありました。

 競技面では、アイスホッケーで地元アメリカが金メダル、女子フィギュアスケートでも、開会式で爽やかに選手宣誓をしたアメリカのキャロル・ヘイス選手がすべての課題で1位となって金メダルを獲得して話題を集めました。

 日本選手では、今大会から初めて競技に加わった女子スピードスケートで、高見沢初枝選手が3種目に入賞と活躍しました。なかでも最終種目である3000メートルでは、3位とはわずか0秒4差で惜しくもメダル獲得はなりませんでしたが、4位に入賞する大健闘の活躍でした。

 今大会の成功により、スコーバレーはアメリカ屈指の有名スキーリゾート地として、特にエクストリームスキー場として栄えて現在に至っています。
現在、スコーバレーへのアクセスロード入り口には、オリンピックを記念したメモリアルデコレーションがあり、当時、メダル授与の表彰式が行なわれたセレモニー会場のバックに立っていた、大きな五輪マークが乗っかった塔のようなモニュメントがこちらへ移設されて残っており、その前には今も聖火が燃えつづけています。また、当時の施設としては例のロープウェーの他に、選手たちのロッカールームハウスも別施設へ転用されて残っています。

<推奨サイト>
【Squaw Valley USA, California Ski Area】
http://www.squaw.com/index.html
http://www.squaw.com/winter/history_olympics.html
英語サイト。オリンピック招致成功までを解説した記事や、オリンピック当時のスライドショー(写真集)などもあります。

【世界のスキーリゾート情報』スコーバレー・スキー・エリア】
http://www.worldskiclub.com/SkiResorts/SquawValley/SquawValley.shtml
日本語サイト。スキー場としての現在の様子がわかります。オリンピック当時を偲ばせる建設物などのレポートもあります。
 
第9回  1964年  インスブルック 大会 (オーストリア) 【地図】  一覧へ戻る▲
 東京オリンピックの半年前に開かれた大会。インスブルックは、オーストリア・チロル州東部に位置する州都で、観光都市。ここで冬季オリンピックは2度開催されていますが、今回はその初回にあたります。スキーの歴史も古く、年末〜年始に掛けて行われる、恒例の『ヨーロッパ・ジャンプ週間』(全4戦)の第3戦目の開催地としての伝統を誇ります。
  この大会より、スキーのジャンプ種目に従来の70メートル級(現・ノーマルヒル)に加えて90メートル級(現・ラージヒル)が新設され、インスブルックの街を見下ろすベルクイーゼルのジャンプ台がオリンピック用に改修されました。このジャンプ競技場は円形競技場の様な客席と聖火台を設置して開会式場としても利用されました。

 また、この大会の出場選手は前回のスコーバレー大会から一気に426人増えて1091人となり、いよいよ1000人の大台に突入、この頃から冬季オリンピックは発展の一途をたどることになります。
 さらに、それまで冬季オリンピックの火は採火される場所が大会毎に異なって一定していませんでしたが、この大会からは夏季大会と同じように、ギリシャ・オリンピアのヘラの神殿の前から採火される事になりました。
 その聖火は、1964年(昭和39年)1月29日、インスブルックの街を一望出来る、ベルクイーゼルの90メートル級ジャンプ競技場での開会式の聖火台に点火され、第9回大会が開幕しました。
 また、この大会よりフィギュアスケートが屋内リンクで開催されるようになりました。

 日本選手では、フィギュアスケートの福原美和選手と、スピードスケートの鈴木恵一選手が5位に入賞する活躍をしました。
特に男子500メートルでの鈴木恵一選手は、銀メダルタイの3人まで、あとわずか0秒1の最小単位の差(当時、スピードスケートは1/10秒単位の手動計時でした)で、銀メダル獲得まであと一歩という僅差での5位でした。

 なお、この年のインスブルック地方は58年ぶりの暖冬異変に見舞われ、雪不足に加えてフェーン現象が襲い、暖かくて乾いた風が吹き荒れる最悪のコンディションとなり、練習中のアルペンスキー選手とボブスレー選手が事故死する悲劇も起こりました。
 いい面と悪い面が同居した冬季オリンピックでした。
 
第10回  1968年  グルノーブル 大会 (フランス) 【地図】  一覧へ戻る▲
 冬を代表する名曲『白い恋人たち』の、甘く切ないメロディーが印象に残る大会。
オリンピックでは、夏季・冬季ともに開催地の組織委員会が記録映画を残すことが義務付けられていますが、このグルノーブル冬季大会においては、その記録映画の監督にフランス映画界の巨匠・ルルーシュ監督、メインテーマ曲はフランスを代表する作曲家、フランシス・レイに依頼して作られました。
 ちょっとシャンソン気味て、甘く切ないメロディーのこのテーマ曲の正式なタイトルは『13 JOURS EN FRANCE』で、邦訳すると「フランスの13日間」、つまり大会期間の13日間、という意味ですが、日本では『白い恋人たち』の名称で有名になり、現在でもスキー場でBGMで利用されるなど、多くの人々に親しまれている冬の名曲となりました。
  グルノーブルは、フランス南東部のフレンチ・アルプスの中心地。第1回シャモニー・モンブラン大会から数えて、フランスでは44年ぶり2度目の冬季オリンピック開催となりました。

 競技面においては、ドゴール大統領およびフランス国民の期待を一身に背負った、地元フランスのジャン・クロード・キリー選手がアルペン3種目で金メダルを独占、冬季オリンピック史上二人目となる”アルペン三冠王”に輝き、開催国である地元・フランスの英雄誕生に沸きかえりました。ただし、これには”疑惑の三冠王”という影が付きまとっています。
 アルペンの最終種目である回転競技は、視界わずか数mという激しい濃霧の中のレースとなり、キリー選手の最大のライバルで優勝候補だった、カール・シュランツ選手(オーストリア)のレース中に謎の人物が目の前を横切ってレースを妨害するという”事件”が起こり、オーストリアチームの猛抗議によりシュランツ選手の再レースが認められます。そしてシュランツ選手はキリー選手のタイムを上回り、トップのタイムを出して金メダル確実となったにも関わらず、再レース前の最初のレースでレース妨害が起こる前に”旗門不通過”があったと判定が覆り、シュランツ選手がよもやの失格となってしまいました。さらに、キリー選手自身にも”旗門不通過疑惑”が巻き起こってライバル国のスイス・オーストリアから激しいクレームが起こったにも関わらず、この抗議は却下され、さらに2位のタイムの選手までも旗門不通過で失格となり、3位のタイムだったキリー選手が繰り上がりで金メダルに決まったため、これが原因でその後も”疑惑の三冠王”と噂され、”真相は霧の中”と言われています。シュランツ選手は、今でも”あれはキリーを地元の英雄にするための陰謀だ”と語っています。

 日本選手で特に活躍が期待されたのは、ジャンプとスピードスケート男子500メートルでした。
ジャンプの藤沢隆選手は、2年前のオスロ世界選手権で銀メダルを獲得し、今回で2大会連続出場の笠谷幸生選手と共に最も期待されました。しかも90メートル級では、1本目に101メートルの大ジャンプで2位につけ、メダル獲得へ絶好の位置に着けますが、なんと2本目に82.5メートルの48位とまさかの大失速、トータル18位まで順位を落としてしまいました。しかしこれでも70メートル級を含めて日本選手の最高順位で、笠谷選手を含め、他の日本選手はみな20位以下と振るいませんでした。
 スピードスケート男子500メートルでは、前回インスブルック大会5位入賞の鈴木恵一選手に「今度はメダルを」との期待が掛かりましたが、8位タイと入賞まで届きませんでした。(しかし今大会後、鈴木選手は翌69年と70年に、2度世界記録保持者となって大活躍し、次回札幌大会で雪辱を期す事となります。)

 また、女子フィギュアスケート代表の石田治子選手は、歌手・女優のいしだあゆみさんの実姉です。いしださんが上京する前までは、姉妹で大阪・梅田のリンクでトレーニングをしていたそうで、いしださんはそこで梅田コマ劇場の制作者にスカウトされ、歌手・女優の道へ進むことになったのだそうです。

 今大会は、成績面では入賞者ゼロと振るわず、さらに札幌オリンピックの前という事で、日本では今ひとつ盛り上がりに欠ける大会でしたが、色々と話題も多く、印象に残った大会だったと思います。

▼グルノーブル冬季オリンピック記録映画『白い恋人たち』
 『二木紘三のMIDI歌声喫茶』仏語・邦訳歌詞付き    MIDI版(一部)

▼グルノーブル冬季オリンピック記録映画『白い恋人たち』 DVD
   http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=11218
   http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=A-00007051
 
第11回  1972年  札幌 大会 (日本) 一覧へ戻る▲
日本選手のメダル獲得
スキージャンプ 70メートル級 笠谷幸生
金野昭次
青地清二

  「・・・ 生まれ変わる  札幌の地に  君の名を書く  ”オリンピック”と・・・」 トワ・エ・モワが歌う大会公式イメージソング『虹と雪のバラード』の甘く切ないメロディーと、”日の丸飛行隊”こと日本ジャンプ陣のメダル独占の快挙、
”札幌の恋人”こと女子フィギュアスケートのジャネット・リン選手の華麗な演技が記憶に残る大会。

   (→Dr.町田さんのMIDIコーナーより 『虹と雪のバラード』試聴ページ

 アジアで初めて開催された冬季オリンピックの開催地・札幌は、冬季オリンピック史上最大の開催都市(人口100万人都市)であり、史上最も南の地で開催された都市でもありました。オリンピック開催に合わせて市内の大規模な整備が行われ、地下鉄も建設され、『虹と雪のバラード』の歌詞のとおり、札幌の街は大発展を遂げていきました。
 実は、札幌は1940年に予定されていた第5回大会の開催地に決定していたものの、第2次世界大戦のために中止された経緯があり、札幌市民の30余年の念願のオリンピック開催でもありました。
 今回の開催決定にはドラマがありました。東京オリンピックを成功させた1年半後の1966年(昭和41年)4月、1972年冬季大会の開催地を選出するローマでのIOC総会での事です。その総会に出席出来なかった高石真五郎委員の「マイ・フレンズ・・・」で始まる病床からのテープによるスピーチは、多くのIOC委員に深い感銘を与え、それが開催地を決める際の投票に影響したと言われています。

 今大会では、アルペンスキーの滑降競技の会場選定には最も悩まされました。オリンピック規定に記されている「標高差800メートル程度を有するコース」に該当するスキーコースが札幌近傍になかったためです。そこで苦肉の策として、国立公園内である支笏湖北畔・恵庭岳の南西側斜面にオリンピック期間限定の臨時のコースを設け、オリンピック閉幕後は植林して自然に帰す策がとられました。自然環境との共存を目指す冬季オリンピックの難しい一面を見た大会でもありました。

 施設面では、開会式場となった真駒内スピードスケート競技場は4万6千人を収容し、照明施設により夜間でも競技可能など、当時のスピートスケート競技場としては世界一のマンモススタジアムでした。
 そのスタジアムで、1972年(昭和47年)2月3日、快晴の青空の下で開会式が行なわれ、札幌冬季オリンピックが開幕しました。開会宣言は天皇陛下(昭和天皇)、選手宣誓は日本期待のスピードスケート・鈴木恵一選手です。

 競技面での話題は、何といっても宮の森で行われた70メートル級ジャンプでの、日本選手の金・銀・銅メダルの独占でしょう。
 金メダルの笠谷幸生選手は、大会直前の年末〜年始に行われた、伝統の「ヨーロッパ・ジャンプ週間」で開幕から3連勝し、金メダル候補の筆頭でした。好調を維持するために最後の第4戦のオーストリア・ビショスフホーヘン大会を欠場、札幌に戻って調整をする選択をします。しかしジャンプ熱が高いオーストリアでは、”スター選手・カサヤ”の欠場が”ボイコット”と受け取られ、これが原因で現在でもビショスフホーヘン大会で日本選手が飛ぶ時はブーイングが起きます。
 しかしこの調整法が功を奏してか、笠谷選手はオリンピック本番では日本中の期待を一身に背負いながらも、見事なジャンプを見せます。
1本目、NHK・北出清五郎アナの実況 「世界の目は打倒・笠谷に向けられております・・・ 」のもと、最長不倒の84メートルを飛んでトップに立ちます。さらに笠谷選手を筆頭に、2位青地、3位金野、4位藤沢と上位4人を日本選手が独占、2本目が大いに期待されました。
 大きなプレッシャーと共に金メダルの期待が掛かる2本目。笠谷選手のスタートの際、北出清五郎アナの実況「・・・さぁ笠谷、さぁ笠谷!金メダルへのジャンプ!!  ・・・・・飛んだ!決まった!! 見事なジャンプ!」はスポーツ放送史に残る名言ともなりました。そんな中、笠谷選手は日本中の期待に応えて見事に金メダルを獲得、銀メダルの金野昭次選手、銅メダルの青地清二選手と共に”日の丸飛行隊”と称えられ、英雄となりました。
 なお、そのあと大倉山で行われた90メートル級ジャンプでは、”2つ目の金メダル”が期待された笠谷選手は1本目を終えて2位につけましたが、2本目に横からの突風を受けるという不運に見舞われて失敗し、7位に終わりました。他の日本選手も振るいませんでした。
  (札幌オリンピック・70m級ジャンプのメダリストの映像(動画)は、こちらのIOCサイトで見る事が出来ます)
   http://www.olympic.org/uk/games/past/facts_uk.asp?OLGT=2&OLGY=1972

 ジャンプと並んで最も期待されたのが、スピードスケート男子500メートル。会場の真駒内スピードスケート場は開会式並の4万人の観客で超満員。元世界記録保持者で今大会で選手宣誓をし、そして今大会で競技生活を引退する鈴木恵一選手を含め、鈴木正樹選手・肥田隆行選手の3人が”38秒トリオ”と期待されましたが、正樹選手の8位が最高と完敗、女子も含めて日本はスピードスケートでは入賞者を出す事が出来ませんでした。

 意外な競技から入賞者が出ました。ノルディック複合では勝呂裕司選手が見事に5位入賞。純ジャンプに注目が集まっていた中での快挙です。また、リュージュ女子では”リンゴちゃん”の愛称で人気を集めた大高優子選手も5位入賞。さらに同じくリュージュ2人乗りでは、荒井理・小林政敏選手組がメダルまであと一歩の4位入賞と活躍しました。日本でそり競技で入賞者を出したのは、これが初めてとなりました。

 また、フィギュアスケートでは銅メダルを獲得したアメリカのジャネット・リン選手の華麗なフリー演技が話題となり、札幌オリンピック最大のアイドルとなりました。日本国内の女性は彼女のショートな金髪のヘアスタイルを真似て流行し、特に歌手の森昌子さんがデビューする際に事務所の強い意向でそれを真似するも、髪質の違いから”たわしカット”と酷評されたのは有名な話です。

 華やかな大会の裏側では悲劇も起こりました。”アマチュアリズム対プロフェッショナル”の対立です。大会開幕寸前まで、IOC(国際オリンピック委員会)とFIS(国際スキー連盟)の対立が続き、一時はスキー競技の全種目がボイコットされて札幌オリンピックの開催自体が危ぶまれるという危機がありました。
  ”ミスター・アマチュア”の異名を持つ、IOCのブランデージ会長が、”走る広告塔”として有名アルペンスキー選手らを排除する構えを見せたのに対し、FIS側は「それでは札幌オリンピックをボイコットする」と強硬姿勢を崩さなかったためです。
 結果的に、オーストリアの英雄、カール・シュランツ選手一人を”プロ選手”として参加させない事で双方が妥協しましたが、後味の悪い結果となりました。シュランツ選手は、前回グルノーブル大会に続き今大会もアルペンの回転競技で金メダル候補でしたが、前回はキリー選手の”疑惑の三冠王”の犠牲となり、今回また大会から追放されるという不運が重なってしまいました。
 なお、アルペンの男子滑降では、シュランツ選手のライバル、スイスのベンハルト・ルッシ選手(後の、長野オリンピック滑降コース設計者で、八方尾根コース内の国立公園地域を跨ぐための苦肉の策として”ルッシ・ジャンプ”というコースも作った人)が金メダルを獲得しました。
 
第12回  1976年  インスブルック 大会 (オーストリア) 【地図】  一覧へ戻る▲
 札幌大会の際、真駒内スケート場で行われた閉会式では、金メダルを掲げた笠谷幸生選手らが参加しましたが、電光掲示板に表示された「4年後にデンバーで会いましょう」の文字は、実現する事が出来ませんでした。

 第12回大会の開催地に予定されていたアメリカのデンバー市は、コロラド州・ロッキー山脈の麓にある人口100万人の美しい山岳都市。ところが、開催地に決定した1970年5月直後から、市民を中心とするコロラド州民の間に自然環境破壊と財政上の問題からオリンピック開催反対の機運が高まります。そして札幌オリンピックから半年後の1972年11月、コロラド州とデンバー市では大統領選挙と一緒に州民の税金支出禁止に関する州法の一部改正につていも投票され、開催に反対している市民連合の得票が過半数を超えたため、デンバー大会組織委員会は身動きが取れなくなり、IOCに対して大会開催の返上を通告します。翌1973年2月、IOCのキラニン会長は理事をローザンヌのIOC本部に集め、投票によって代替地にオーストリアのインスブルックを選びました。インスブルックが選ばれた理由は、3大会前に開催したばかりであり、12年前の施設のほとんどが再利用可能であり、急遽決まった大会運営に慣れているであろうとの判断からでした。

 そんなわけでインスブルックでは2度目の冬季オリンピック開催となりましたが、開会式場は前回と同じ、ベルクイーゼルの90メートル級ジャンプ競技場で行われ、前回大会の高い聖火台の直下に低い聖火台をもう一つ作り、”双子聖火台”として両方に点火され、注目を集めました。

 競技面では、地元オーストリアのシュナーブル、インナウアー選手らジャンプ陣が大活躍して大いに盛り上がり、フィギュアスケートに新種目のアイスダンスが加わり、女子フィギュアスケート金メダリストのドロシー・ハミル選手の髪型”ハミル・カット”などが注目を集めて話題となりました。日本は期待されたジャンプの笠谷選手をはじめ、メダルどころか入賞者ゼロに終わり、残念な大会に終わりました。
 
第13回  1980年  レークプラシッド 大会 (アメリカ) 【地図】  一覧へ戻る▲
日本選手のメダル獲得
スキージャンプ 70メートル級 八木弘和

 1932年の第2回大会以来、48年ぶり2度目の冬季オリンピック開催。前回大会以来、レークプラシッドは着実にアメリカ・ウインタースポーツ界の中心地として発展していきました。この大会でのメダルは、地元ニューヨークにある宝石店『ティファニー』製の直径8cmの大きなメダルで、これはガルミッシュ・パルテンキルヘン大会の10cmに次ぐ大きさで話題となりました。

 競技面において、この大会の最大のヒーローとなったのは、スピードスケート5種目すべてに金メダルを獲得した”5冠王”、地元アメリカのエリク・ハイデン選手。開会式でも選手宣誓をした医学生のアメリカン・ヒーローの誕生に、開催国・アメリカは沸き返りました。
 また、当時アルペン界に君臨していた、インゲマル・ステンマルク選手(スウェーデン)が回転・大回転で金メダルを獲得する活躍をしました。

 日本選手では、前シーズンのフィギュアスケート世界選手権で銅メダルを獲得している、渡部絵美選手に日本中の期待がかかりました。最初の規定は4位の滑り出しで、想定内の結果で順調。当時、渡部選手のフリーの実力は世界チャンピオンのフラチアニ選手(アメリカ)に次いで世界のナンバー2と評価されていました。苦手の規定で4位までにつけ、次のショートプログラムとフリーで逆転してメダルを狙う計算です。しかし、次のショートプログラムの課題のコンビネーションジャンプでは、渡部選手が最も得意とするダブルアクセルをファーストジャンプに入れた、ダブルアクセル−ダプルループのコンビネーションを跳びますが、セカンドジャンプのダブルループの着氷で両足を着いて大きくバランスを崩すミスを犯して大きく減点されてしまい、ショートプログラムを終えて4位のままですが3位の選手とは大きく点差が開いてしまいます。これが最後まで響き、得意のフリーでの逆転もかなわず目標のメダル獲得はなりませんでしたが、1964年インスブルック大会での福原美和選手の5位以来となる、6位入賞を果たしました。また、”ビールマン・スピン”の創始者であるビールマン選手(スイス)がその独創的なスピンで魅了し、フリー1位となって規定12位から一気に4位に入賞しました。結局、これが響いてフラチアニ選手はフリー1位となれず、逆転で金メダル獲得へのシナリオは崩れましたが銀メダルを獲得します。規定1位だったペッチ選手(東ドイツ)がリードを守りきり、逃げ切り金メダルとなりました。

 女子フィギュアと並んで日本期待のジャンプでは、当初は5番手として代表入りが出来ずにいた秋元正博選手が、敦賀栄選手の腰痛が治らなかったために急遽代表に抜擢。現地入りしてからの公式練習では、エース・八木弘和選手を圧倒する勢いで連日大ジャンプを連発して絶好調、現地の報道でも一躍金メダル候補に名乗りをあげます。最長不倒もマークするなど、この好調は70メートル級本番当日の直前のトライアル(試技)まで続きます。ところが、なぜか本番の一本目でまさかの失敗、8位で二本目での逆転にかけます。一方、八木選手は本番の一本目では見事なジャンプで2位につけ、メダルへ向けて好発進します。
 二人のメダルを掛けた2本目、八木選手は失敗してしまいますが2位のデッカート選手(東ドイツ)と同点で2位を守ります。そして秋元選手。2本目は本来のジャンプを取り戻し、この回は4位につけますが1本目の失敗が響き、わずか0.7点差で惜しくもメダルに届きませんでしたが、それでも堂々の4位入賞。
飛距離点は50cmで0.8点だったので、飛距離にして50cmの差もなく、秋元選手があと50cm飛距離を延ばすか飛型審判の誰かが1点多く採点していたら銀メダルを獲得、八木選手も銅メダルを同時に獲得していたほどの僅差の大接戦でした。

 続く90メートル級ジャンプでも、秋元選手が公式練習で連日の110メートル超えの大ジャンプ&最長不倒を連発、絶好調で今回も金メダル候補にあがります。八木選手は凍った湖上での表彰式のために風邪をひいてしまい、元気がありません。
そして本番。ところが、あれだけ絶好調だった秋元選手はまたしてもなぜか本番では力を発揮できず、無念の10位に沈みます。八木選手は38度の高熱のために全く実力を出せませんでした。
 いかに本番で本来の実力を出せるか?が、今後の課題となってしまいましたが、メダル獲得と入賞は大きな収穫となりました。

<参考サイト>
【LAKE PLACID OLYMPIC REGION】http://www.orda.org/newsite/index.php(英語サイト)
オリンピック地域開発局HP。レークプラシッド一帯の競技施設関連、オリンピックミュージアム、観光・イベントなどを紹介しています。
 
第14回  1984年  サラエボ 大会 (ユーゴスラビア) 【地図】  一覧へ戻る▲
日本選手のメダル獲得
スピードスケート 男子500メートル 北沢欣浩

 冬季オリンピック史上初めて社会主義国で開催された大会。
当時、オリンピックを開催する場合は赤字となる事が当たり前だったので、開催に立候補する都市が極端に少なくなっており、今大会も開催が危ぶまれたため、第11回大会を成功させている札幌市が再度立候補しました。しかし締め切り直前に立候補したサラエボが決戦投票で勝って開催地に選ばれる事となります。

 競技面においては、ジャンプの70メートル級で東ドイツのバイスフロク、90メートル級ではフィンランドのニッカネン選手がそれぞれ金メダルを獲得、また逆にお互いに銀メダルを獲得し合うなど活躍しました。フィギュアスケートのアイスダンスでは、英国のトービル&ディーン組が伝説の「芸術点オール6点満点」を出して話題をさらいました。

 日本選手では、何と言ってもスピードスケート男子500メートルでの黒岩彰選手に金メダルの期待がかかりましたが、激しい降雪の中での最悪のリンク・コンディションに見舞われ、当時世界一と言われたコーナーワークのテクニックを生かせずに10位に終わり、期待されたメダル獲得はなりませんでした。しかし、伏兵・北沢欣浩選手が見事銀メダルを獲得し、日本スケート界初のオリンピック・メダリストとなりました。
 
第15回  1988年  カルガリー 大会 (カナダ) 【地図】  一覧へ戻る▲
日本選手のメダル獲得
スピードスケート 男子500メートル 黒岩 彰

<デモンストレーション(公開)競技>(非正式種目)
ショートトラック 女子3000メートル 獅子井英子
女子3000mリレー 獅子井英子、山田由美子、竹内洋美、木下真理子
男子500メートル 石原辰義

 カナディアンロッキーの麓に位置する、カナダ・アルバータ州南部の中心都市(人口約59万人)で開催された大会。この大会から大会期間中に日曜日が3回くるようにするため、大会期間が夏季大会と同じ16日間となりました。
  また施設面においては、スピードスケート会場において、冬季オリンピック史上初の屋内リンクの使用となりました。このリンクは「オリンピック・オーバル」と命名され、標高1032メートルのために空気抵抗が少なく、タイムが良くなるために”世界最速リンク”と称され、毎年世界新記録が更新されるリンクとして有名です。
 
 冬季オリンピックでは、天候が大会運営に大きく左右しますが、今大会では、前半はマイナス20度前後の極寒と吹雪、後半は打って変わって「シヌーク」と呼ばれる熱風が吹き荒れ、プラス20度以上にもなって雪や氷を溶かして競技施設に悪影響を与え、大会日程が大幅に狂いました。

 競技面では、ジャンプのマッチ・ニッカネン選手(フィンランド)が、70m級・90m級・団体戦の3種目で金メダルを独占、アルペンスキーでアルベルト・トンバ選手(イタリア)が大回転と回転の”二冠王”、フィギュアスケートのカタリナ・ビット選手(東ドイツ)が大会2連覇と話題を集めました。
 また、ボブスレーのジャマイカチームの活躍を描いた映画『クール・ランニング』の舞台ともなりました。
 
 日本選手では、スピードスケートの黒岩彰選手が男子500mで3位となって悲願のメダルを獲得、前回サラエボ大会での雪辱を果たしました。また、橋本聖子選手が出場した5種目すべてに日本新記録をマークして入賞を果たします。

 フィギュアスケートでは、男子ではボイタノ(アメリカ)とオーサー(カナダ)の同じファーストネーム同士による”ブライアン対決”が注目され、女子ではビット(東ドイツ)とトーマス(アメリカ)が、フリーで同じ曲を使う”カルメン対決”で注目されました。また、17歳の伊藤みどり選手が、得意のフリーで5種類のトリプル・ジャンプを7度決めるなどノーミスの演技でフリー3位、総合で5位に入り、”ジャンプの女王”誕生に世界が沸きました。トリプル・トゥループ→トリプル・トゥループのコンビネーションジャンプも鮮やかに決め、フリーのテクニカルメリット(技術点)は、9人の審判中7人が5.9、残り二人が5.8で、全選手中で最高の点数。芸術点こそメダリストたちに及びませんでしたが、彼女の技術が世界一である事が認められた瞬間でした。
 その伊藤みどり選手は大会最終日に、別会場で閉会式が間もなく始まろうとしてる最中に行なわれた、サドルドームでのエキシビションに特別に招待され、参加選手の最後に登場します。一輪の赤い薔薇の花を手に持ち、スポットライトを浴びながら 『時間旅行』(by 松田聖子)というスローバラードな選曲。大観衆の声援の中で得意のジャンプを何度も披露、大会フィナーレを爽やかに飾りました。

 なお、今大会では正式競技・種目以外にデモンストレーション競技(公開競技)としてフリースタイルスキーとショートトラックスピードスケートが実施されました。日本はショートトラックにおいて、日本選手権6連覇&世界選手権二度総合優勝の”ショートの女王”・獅子井英子選手らが出場。獅子井選手は、3年半前に亡くなった父の遺志を受け継ぐ ”亡き父へ捧げる金メダル”を果たし、見事に金メダルを獲得します。さらに女子リレーで銀、石原辰義選手が銅メダルを獲得、次回アルベールビル大会から正式種目へ昇格するこの種目に対し、期待を持てる結果となりました。
 
第16回  1992年  アルベールビル 大会 (フランス) 【地図】  一覧へ戻る▲
日本選手のメダル獲得
ノルディック複合 団体 三ヶ田礼一、荻原健司、河野孝典
フィギュアスケート 女子シングル 伊藤みどり
スピードスケート 男子500m 黒岩敏幸
井上純一
男子1000m 宮部行範
女子1500m 橋本聖子
ショートトラック 男子5000mリレー 川崎 努、石原辰義、河合季信、赤坂雄一

 フレンチ・アルプスの山中、フランスのスイス・イタリアサイドに位置するサボワ地方・アルベールビルを中心として開催された大会。スケートはアルベールビル、ジャンプなどノルディックスキーはクーシュベル、アルペンスキーはバルディゼールなど、各競技会場を分散して行われました。また、スピードスケートが屋外で行われた最後の冬季オリンピックでもあります。また今大会の組織委員会会長には、1968年グルノーブル大会で”アルペン三冠王”に輝いた、地元フランスの英雄、ジャン・クロード・キリー氏が就任、スキー競技の運営企画に加わり、大会の成功に大きく寄与しました。

 今大会は、日本が大きく飛躍する大会となりました。日本が前回大会までに冬季オリンピックで獲得したメダルの合計は7個でしたが、今大会だけで一気に7つを獲得、合計数を倍増する結果となったからです。札幌大会でのジャンプの笠谷選手以来、日本に20年ぶりの金メダルをもたらしたノルディック複合、前回カルガリー大会で5位入賞した伊藤みどり・橋本聖子選手が悲願のメダルを獲得した事などが感動を呼びました。スピードスケートでは、合計4つのメダルを獲得し、メダルラッシュに沸きました。
 特にフィギュアスケートの伊藤みどり選手は、女子選手では冬季オリンピック史上初めてトリプル・アクセル(3回転半)ジャンプを決めたことが話題となりました。その後も女子では、五輪においては伊藤選手以外ではトリプル・アクセルを成功させた選手はいない事から、その技術が素晴らしかったことがわかります。(五輪以外の国際大会では、伊藤選手の他にアメリカのトーニャ・ハーディング選手も成功しています。)

 また、今大会より新たにフリースタイルスキーのモーグルとショートトラックスピードスケートが正式種目に追加され、日本はさっそく男子5000メートルリレーで銅メダルを獲得する活躍を見せました。
他に、公開競技としてカーリングとフリースタイルスキーのエアリアル、スピードスキーが実施されました。
 
第17回  1994年  リレハンメル 大会 (ノルウェー) 【地図】  一覧へ戻る▲
日本選手のメダル獲得
ノルディック複合 団体 荻原健司、河野孝典、阿部雅司
個人 河野孝典
スキージャンプ 団体 原田雅彦、葛西紀明、岡部孝信、西方仁也
スピードスケート 男子500m 堀井 学
女子5000m 山本宏美

 1924年に夏季大会から独立した冬季オリンピックは、以後夏季大会と同じ年に開催されて来ましたが、1986年10月にスイス・ローザンヌで開催されたIOC総会において、夏季大会に比べて今ひとつ陰の薄かった冬季大会を盛り上げる事と、4年毎に夏季大会と冬季大会が同じ年に開催される事による負担を避けるため、1992年大会終了後からは夏季大会と冬季大会の開催を2年ずらして2年毎に交互に開催する事となり、その新方式への移行のため、今回だけ特例として前回大会より2年後の1994年に冬季大会を開く事となりました。

 今回の冬季オリンピックは、1952年の第6回オスロ大会以来42年ぶりに、再び”スキー発祥の地”ノルウェーに帰ってきました。開催地は、人口2万3千人の小さな町・リレハンメル。スピードスケート会場は、オスロ寄りの隣町・ハーマルの湖岸に建つ屋内リンク。大会組織委員会は環境に配慮し、自然との共存を目指す”グリーン・オリンピック”を提唱し、リンゴの繊維で作った食器の皿を作るなど、実際にそれを実行しました。
  また、夕方〜夜にかけて行われた開会式は、光と幻想的な演出で、多くの人々の印象に残りました。

 競技面においては、ノルディックスキーの男子15kmクロスカントリーにおいて、地元ノルウェーの英雄、ビョルン・ダーリ選手が連覇したのをはじめ、スピードスケートの中・長距離3種目でもノルウェーのヨハン・オラフ・コス選手がいずれも世界新記録で3つの金メダルを獲得するなど、地元・ノルウェー勢の大活躍に大会は大いに盛り上がりました。また、フィギュアスケート・女子シングルにおいて、アメリカのケリガン選手vsハーディング選手の”因縁の対決”が注目され、ケリガン選手が銀メダルを獲得しました。
 今回、フィギュアスケートではプロスケーターの参加が認められたため、かつての金メダリストが復帰して参加した事も話題となりました。男子のカルガリー五輪金メダリストのブライアン・ボイタノ選手(アメリカ)、アルベールビル五輪金メダリストのビクトル・ペトレンコ選手(旧ソ連、ウクライナ)、そして女子ではサラエボ、カルガリーと2大会連続の金メダリスト、カタリナ・ビット選手(旧東ドイツ)です。それぞれメダルの再獲得はなりませんでしたが、再び競技の世界に戻ってきた往年のスター選手の競演は、多くのファンを魅了しました。特にビット選手が金メダルを獲得したサラエボは戦火の最中にあるため、反戦歌で有名な『花はどこへ行った』をプログラムに選曲して演技した事が、大きな感動を呼びました。
 (参考→『うたごえ喫茶”のび”』よりMIDIデータ 『花はどこへ行った』

また、フリースタイルスキーのエアリアルが新たに正式種目に追加され、アクロバットな演技が人気を集めました。

 そんな中で、ノルディック王国・ノルウェーの牙城を崩して冬季オリンピック2連覇を果たした、ノルディック複合団体の日本の活躍は、地元ノルウェーでも大きな話題となりました。ジャンプ団体戦でも日本は銀メダルと健闘し、さらにスピードスケートでは2つのメダルを獲得するなど、次回長野大会へ向けて収穫のある大会となりました。